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臨済宗國泰寺派大本山 摩頂山 國泰寺
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はじめに
臨済宗は禅宗※1の一派であり、鎌倉時代に支那(宋)から日本に伝えられました。國泰寺は全国に14ある臨済宗の本山のうちの一つで日本最北端に位置する、臨済宗國泰寺派の大本山で、北陸随一の臨済宗道場として、700年の歴史を保っています。
臨済禅の特徴として坐禅の実習とともに「公安※2」という問題を師匠から与えられ、それを参究することが挙げられます。これにより本来清浄な自己の本性を看破して大安楽の境地に至り、生きとし生けるものの為に働くことが可能となります。
※1.一口に「禅宗」と呼び習わされていますが、実際には「禅宗」という教団は存在しなく、曹洞宗・臨済宗・黄檗宗の三宗をまとめた通称です。
※2.元来、公府の安牘(こうふのあんとく)という意。つまり国家の法令または判決文を指します。祖師の言行や機縁を選んで、天下の修行者の規範としたもので、全身全霊を以て究明すべき問題のこと。臨済禅はこの公案にひたすら取り組む宗旨です。
臨済宗
臨済義玄(?~867年)を派祖とする公案禅。
日本には鎌倉・室町時代を頂点として、二十四流の禅が到来しましたが、そのうち曹洞系三派を除き、他はすべて臨済系です。臨済禅は京・鎌倉にあって武家階級と交渉を持ち、京都五山(南禅寺、天龍寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺)や鎌倉五山(建長寺、円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄妙寺)を中心に展開し、特に文化的な面で日本史に大きな足跡を残しました。
現在の臨済宗の宗風を決定し+
たのは江戸時代に出現した白隠慧鶴であり、現在の法系のほとんどがこの白隠下の流れをくんでいるといわれています。
現在、日本臨済宗には十四派の大本山があり、國泰寺はその一派です。
臨済宗では特に一定の礼拝の対象があるわけではありませんが、釈迦牟尼如来の像が祀ってあるのが普通です。この他、大乗仏教の理想像である菩薩の像を祀ることもあります。
明治以降の臨済宗の変遷
- 明治5年(1872) 明治政府は仏教諸宗派を天台宗、真言宗、浄土宗、禅宗、真宗、日蓮宗、時宗の七宗派において一統し、一宗一管長制とした。臨済宗、黄檗宗、曹洞宗 → 禅宗一宗となり、禅宗初代管長に由理滴水老師が就任。
- 明治7年(1874) 臨済宗と曹洞宗が分離し、黄檗宗は臨済宗に属した。臨済管長には荻野独園老師が就任する。
- 明治9年(1876) 黄檗宗が臨済宗より分離独立し、黄檗宗を公称する。同年9月、南禅寺派、天龍寺派、相国寺派、建仁寺派、建長寺派、円覚寺派、大徳寺派、妙心寺派、東福寺派の各派が独立し、各々管長をおいた。
- 明治13年(1880) 東福寺派から永源寺派が独立し管長をおく。
- 明治26年(1893) 南禅寺派から方広寺派が独立し管長をおく。
- 明治38年(1905) 相国寺派から國泰寺派が独立し管長をおく。(初代管長は梅田瑞雲老師)天龍寺派から仏通寺派が独立し管長をおく。
- 明治41年(1908) 向嶽寺派に管長をおく。
※ここに臨済宗十四本山が定まる
臨済宗大本山
- 東山 建仁寺(京都市東山区大和大路通四条下る小松町)
- 慧日山 東福寺(京都市東山区本町15丁目778)
- 巨福山 建長寺(神奈川県鎌倉市山ノ内8)
- 瑞鹿山 円覚寺(鎌倉市山ノ内409)
- 瑞龍山 南禅寺(京都府京都市左京区南禅寺福地町86)
- 摩頂山 國泰寺(当寺)
- 龍寶山 大徳寺(京都市北区紫野大徳寺町53)
- 正法山 妙心寺(京都府京都市右京区花園妙心寺町64)
- 霊亀山 天龍寺(京都府京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町68)
- 瑞石山 永源寺(滋賀県東近江市永源寺高野町41)
- 塩山 向嶽寺(山梨県甲州市塩山上於曽2026)
- 万年山 相国寺(京都市上京区相国寺門前町701)
- 深奥山 方広寺(静岡県浜松市北区引佐町奥山1577-1)
- 御許山 佛通寺(広島県三原市高坂町許山22番地)
- 円通山 興聖寺(京都市上京区堀川通寺之内上ル)
臨済宗國泰寺派リンク
禅宗三宗の違い
坐禅を重視している点は共通ですが、そのとらえ方は各宗によって異なります。
臨済宗
坐禅をして公案に取り組み、師家に見解を述べます。このため、「公案禅」または「看話禅」と言われます。なお坐禅は、曹洞宗が壁に向かうのに対して、臨済宗では、壁を背にして行います。
曹洞宗
「黙照禅」といわれ、「只管打坐」の言葉通りただひたすら坐禅をする。これを「面壁」といいます。
大本山
永平寺(福井県永平寺町)
總持寺(神奈川県横浜市)
黄檗宗
坐禅とともに念仏を重視します。法式・儀礼からお経の読み方まで、支那(宋)の明様式の儀礼を色濃く伝えています。
大本山
萬福寺(京都府宇治市)