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臨済宗國泰寺派大本山 摩頂山 國泰寺
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國泰寺(国泰寺)は北陸路には数少ない臨済禅の道場で、臨済宗國泰寺派の大本山です。二上山中の草庵から正安年間(1300年頃)摩項山東松寺を創開。後醍醐天皇の勅願所としても名高く、「北陸鎮護第一禅刹特進出世之大道場」として京都南禅寺と同格の勅願所となりました。その時いただいた勅額『護國摩頂山巨山國泰仁王萬年禅寺』から東松寺を改めて國泰寺(国泰寺)と称しています。
当寺は、創設以来、名僧や高僧を輩出し、六百年間の多難な歴史の中で脈々と臨済宗の法燈を受けついできました。現在でも県内はもとより、全国から、仏の道を求め、参禅、修行の雲水、有志者が集まってきます。
先住心田和尚は、「人命尊重」を祈願して利生塔の建立、月泉庭や龍渕池(放生池)を整備し、大衆のために禅堂を開放して団体・個人の坐禅指導に努めました。御開山の「己事究明専一なり」の言葉を奉じて、現在も大衆に開かれた禅道場を目指しています。
国泰寺是北陆地区为数不多的临济禅道场,临济宗国泰寺派的大本山。
作为开山鼻祖的慈云妙意(1274-1345)在云游之时,被二上山的幽邃境界所吸引,于是在山中的草庵里独自苦行修禅。受偶然云游至此的孤峰觉明(三光国师)之邀,前往拜见纪伊由良西方寺(现为兴国寺)的法灯国师之后豁然大悟。不久,国师圆寂,慈云妙意返回二上山继续修行。
此后,由于慕其禅风而聚集了很多游方僧。因而在嘉元二年(1304)开创了摩顶山东松寺。嘉历二年(1327)接受后醍醐天皇的皈依,受赐“清泉禅师”之号,第二年得赐“护国摩顶巨山国泰仁王万年禅寺”的敕额,而成为了勅愿寺。兴国三年(1342),由南朝的后村上帝赠送了后醍醐天皇的肖像,有“视同天皇驾到“的宸翰,因此称为“天皇殿”。
另外,北朝的光明天皇也皈依于此,康永四年(1345)6月3日,慈云留下“天有月,地有泉”的临终之句,于72岁圆寂。受光明天皇赐号“慧日圣光国师”,塔名为“正脉”,室称为“大圆”。
之后,本寺虽获守护代神保氏的崇信,却因遭遇应仁年以后的战乱而荒废了。后来,二十七世雪庭和尚接受后奈良天皇的圣旨而复兴本寺。但在天正十三年(1585),受前田利家的指令,方丈转用于守山城(利家安堵状)而移至现在的所在地。
进入江户时代后,贞亨三年(1686)建成了现在的大方丈室,将军纲吉以本寺为法灯派总本山,亨保年间由万壑和尚等人对伽蓝进行了大规模的修缮,基本形成了现在的布局。
到了明治维新时期,虽受排佛毁寺的影响,但是越叟、雪门两位和尚在山冈铁舟的大力帮助下,重建了天皇殿等诸堂宇。此外,西田几多郎和铃木大拙在年轻时受北条时敬的推荐,曾拜访过雪门和尚。
明治二十五(1892)年设立了虚无僧尺八的妙音会,在做法事的时候,有诵经和法竹(尺八)合奏的独特习惯。特别是开山忌(6月2、3日),会聚集二十名左右的虚无僧,那时响彻古寺的美妙音声,就形成了一首风景诗。
先住心田和尚以祈祷“尊重人命”而建立了利生塔,此外还建成了月泉庭及龙渊池(放生池),并面向大众开放禅堂,对团体及个人进行坐禅指导。遵循创建者的“己事究明专一”所言,本寺现在也正以“面向大众开放的禅道场”为目标而不懈地努力着。
総門には『國泰禅寺』と書かれた額がありますが、これは、明の高泉和尚の書いたものです。左手構に朝廷の使者を迎えるための勅使門があり、後醍醐天皇をはじめとして、朝廷とのつながりの深さを物語っています。
境内は約一万平方メートルの広さをもち、全域が、静かな道場になっています。境内には経蔵・鐘楼・観音堂・三門・法堂・方丈・坐禅堂・庫裡・天皇殿・開山堂・利生塔等の諸伽藍が建ち並んでいます。
月泉庭・龍渕池は京都の小川寿一氏の名作。石は開山國師ゆかりの二上山の砂岩。月泉庭中央の巨石は約42トン。庭園の石としては日本一であろうと云われています。つくばいの青石は滋賀県の永源寺石。砂は京都の白川砂。
この度の令和6年能登半島地震により被災された皆様、ならびに関係者の皆様に心よりお見舞い申し上げます。
皆様の安全と被災地の復興、地域の皆様の生活が一日でも早く平穏に復することを切に願っております。
さて、当寺においても伽藍の損傷、白壁の崩落や瓦の落下、墓石や灯籠の倒壊等、多大な被害に見舞われました。修理・修復には、多大な費用が見込まれ、当寺の力だけでは如何ともしがたい状況です。どうか皆様の温かいご支援を賜りますよう、よろしくお願いいたします。(当寺の被害状況)
義援金振込口座:北陸銀行伏木支店 普通預金 6040899
口座名義:宗教法人 国泰寺(シュウキョウホウジン コクタイジ)
※大変恐縮ですが、振込手数料はご負担ください。